《アスペクト》の虜となるパヨク脳とそのイジメ体質 (17/6/3)

 社会の事象というものは極めて多様である。だから人間はまずは事象を大まかに「掴む」わけだ。ゲシュタルト的にアスペクト(様相)を把握するのだ。しかもこれはルビンの壺のようなもので、同じものを見ても、全く異なる印象をもって見たり、サヨウヨのように真逆に見えたりさえするわけである。社会までいかずとも、個人の印象だってそうである。第一印象が悪かったりすると、かなり引きずってしまったりもする。ある事件がきっかけとなって、印象がコロッと変わってしまったりもするわけだ。人間はゲシュタルト的にアスペクトで事象を把握する。イジメなどもそれが大きいと思う。もちろんイジメ現象も多種多様でいろんなケースがあろうが。おそらく何らかの目立つ欠点や失敗があったのだろう。それを機にして、全否定のアスペクトが現前するわけだ。何をやってもムカついてきたりするわけだ。それにプラスしてエンターテイメント機能も生じる。で、何が言いたいのかというと、もちろんパヨクがそれだと言いたいのであるがw、しかしこれは右も含めて一般的に言える人間のさがである。パヨクは深刻極まるが、パヨク以外の者もときに自省してみる必要がある。明らかにパヨクはこの状態に入り込んでしまっている。パヨパヨ病であるwwwイジメにおける個人の欠点と言ったが、個人ですら粗探しすればいくらでも悪口は言えるのである。いわんや社会や政治となると言いたい放題であり、ネタは尽きることがないだろう。ここで必要なことは事態を客観的に見つめ秤量し判断するという姿勢である。しかしこれがまた突き詰めると難しい。私も長年考えてきたことだ。先に挙げたウェーバーもそうだが、他にも例えばマンハイムに始まる知識社会学等を参照しながら考えてきた。イデオロギーとかの問題だ。 しかしまあ、この低レベルのパヨク言説は馬鹿馬鹿しすぎ醜悪すぎて庶民感覚でも批判、否定できる類のものだ。パヨクに多いのは俗に言う、自分に優しく他人(権力)に厳しいといったものではないか?しかもこれは客観的な見方であり、当人的には自分に厳しく他人にも厳しい、くらいに考えているかもしれないし、あるいは市民(というか活動家)は自分に優しくともよく、権力には厳しくしてもよいなどと考えているかもしれない。そして結局は、市民の基準では自分は自分に厳しく、権力の基準ではさほど厳しくもなくむしろ甘々なくらいだ、くらいのダブルスタンダードを用いて、自分に厳しく他人にも厳しいぐらいに自己認識をしているのかもしれないが、傍から見たら、それは、自分に優しく他人に厳しい人と見做される態度だろう。このように一番たちが悪いのは、本人的には自分には厳しいと思っているが実は甘々で他人には当人的には優しいと思っていながら実は厳しいというタイプであろう。これがパヨクに多いのだ。聖人君子クラスであり、普通の人間には非常に困難である。一般人はここまでなれなくとも仕方がないだろう。しかし、せめて、自分は自分に甘く優しいと認識することぐらいはできるし、それだけで大分救われるのである。そしてこれが全く欠如している正義の味方ごっこに興じているのがパヨクと呼ばれる人たちなのである。口では謙虚に、いえいえ私ごときは・・・などと言うかもしれないが、自分は世界一愛に溢れた人間だなどと思っていたりするw自分に甘くともその甘さを客観視できれば、他人にも優しくというか、あまり厳しい要求ができなくなるし、欠点も許容しやすいのである。だから一番たちの悪いのは自分を無謬の存在だと勘違いしているパヨパヨな人間だ。自分は棚に上げ自分の欠点は棒大針小で、他人の欠点は針小棒大であら探しばかりして印象操作まで駆使して攻撃する人間。最悪である。

 

(17/6/3)