哲学と人生

哲学のよい面は、人生を手段にできることである。

 

通常の人間の行為は、人生内で消費される。

 

しかしながら、哲学は人生を消費(浪費)するのである。

 

そういう意味では、哲学は本性上、反体制、反現状である。もちろん知恵遅れのバカ左翼どものおこちゃまレベルの反体制などとはまったく違う意味、レベルにおいてである。

 

人生を手段とするとは、それが本当にそうかはともかく、想像しやすい例としては、何らかの理論のために時間(人生)を費やしているものとか、なんらかの数学の定理等の証明を朝から晩まだ考えた挙句に人生を終わるとか、ややステレオタイプなイメージでもあるが、そういう主としてコテコテの学者系のライフスタイルを挙げうるだろう。他には、ちょうど226青年将校らのように、他の目的のために現状の生活を捨てるタイプもあるかもしれない。とにかく、今の人生全てを投げ捨てても何かを得ようとしているのである。

 

しかし、政治的な反現状は現状との連続性が強い。やはり現状主義者の一変態と考えられるべきかもしれない。

 

この辺は微妙だが、ここでは、まずもって、第一の学者系のライフスタイルに注目したい。といったもその辺のなんちゃって無能ハゲはどうでもいい。

 

そうだな、ゲーデルあたりがぴったりの例かもしれない。引きこもって、電話も切って、外部との連絡を完全に絶って、ろくに掃除すらせず仕事に没頭した。それもその辺のハゲアカどもと違って、出世などには関心がなく、ただ真理だけを求め、人生は真理に捧げられ、真理のための手段にすぎなかったのである。

 

現代でも、ポワンカレ予想を解いたロシアのペレルマンなども、そういった「真理のための人生」系の学者といえるだろう。

 

こういった類の人間にとっては人生は手段であり、目的のためのカウントダウンにすぎないのである。